明治五年三月、官幣大社廣田神社と分離した戎社には、代々廣田西宮両社の神主を勤めてきた吉井家の傍流吉井西家から、「西宮神社」祠掌として吉井良幹が任ぜられ、六年六月には西宮戎社を大国主西神社と改称し、祠掌に吉井良秀を補任している。
明治七年四月、この大国主西神社(西宮戎社)の村社から県社への昇格を願い出、大国主西神社として県社に列せられた(明治七年六月三十日)。
ところが、同年八月二十八日付を以て先の大国主西神社の社格を取り消し、西宮神社ともども廣田神社の摂社と定める旨、教部省から達しがある。この時点で教部省は、「西宮戎神社」と「大国主西神社」を別の神社と見ており、「西宮戎神社」を「大国主西神社」と改称し県社への昇格を願い出た西宮神社側との認識の違いが混乱の一因となっている。
氏子総代が異議申立てをした処、十一月七日に摂社の儀はそのまま、「西宮神社」「大国主西神社」共に県社と定めるとの指令があった。ここに云う「大国主西神社」とは、延喜式神名帳・攝津国菟原郡にある大國主西神社とも言われているが、元は境内の阿彌陀堂という仏堂で、享保二十年(1735)、大己貴命 少彦名命二柱を勧請し神社にしたとものとされている。
氏子総代等納得せず、さらに嘆願した処、県及び教部省は苦心、考証の結果、明治八年四月二十八日付で、「今更廣田神社 摂社の名称の取消しは出来ない、大国主西神社の由来に付いては確定出来ないので両社とも県社のままとする。但し、西宮神社は県社として別に祠官を定め社務・社入も別途とするも差し支えなし」と、一応の決着を見た。
大東亜戦終戦後は当然の如く、廣田西宮両神社は別々の宗教法人となり、大国主西神社は社格を持たぬ神社として、西宮神社の境内神社となっている。
(平成22年7月11日 「吉井良尚選集」より纏めた)