ホーム > 境内案内 > 明治天皇行幸所 旧岩倉邸 六英堂

 

明治天皇行幸所 旧岩倉邸 六 英 堂

六英堂は、岩倉具視公の東京丸の内にあった私邸の一部で、明治新政府の主要な人物、公家の三條実美、岩倉具視、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長門の木戸孝允、伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねたということから、この名が付けられたと言われている。元は埼玉忍藩の江戸屋敷で、これを私邸としていたが、質素を旨とする岩倉は、簡素な造りの離れ座敷を好んで使っていたようで、明治天皇が、明治十六年七月、病に伏した岩倉を見舞ったと伝えられているのも、この離れである。

具視公薨去後、私邸は宮内省が宮城前広場整備のため買い上げ取り壊されるが、天皇行幸跡と云うことで、有志者によりこの建物だけは新宿の国鉄敷地内で保存される。大正十一年には新たな保存先として、川崎造船所の創業者川崎家の神戸市布引の屋敷に引き取られる。初代川崎正蔵は薩摩出身で大久保利通の薫陶も受けていた。甥で養子となる二代川崎芳太郎も薩摩の出で、大久保公の縁の建物という事で引き受けられたようだ。ここで「六英堂」と名付けられた。

戦後、川崎家の手を離れた布引の敷地に残された六英堂は新たな移転先を探し、昭和五十二年、この西宮神社に移築保存された。木造平屋建て、約二十九・八六坪、十二畳半二間と鞘の間からなる。柱の一部、戸袋などごく一部は新たな材を使用した。建物の解体移築と同時に、六英堂が神戸布引に在りし昭和十年、当時の「史蹟名勝天然記念物保存法」により、史蹟として文部大臣の指定を受けていたことを示す厚板の看板、現在門内右脇にある石の標柱も移転された。また、六英傑の額入り写真も引き取っている。そして何より、岐阜出身明治九年生れの画家北 蓮蔵の手になる「岩倉邸行幸」図に興味が引かれる。この絵画は、当社、明治神宮絵画館、品川海晏寺、岩倉記念資料館の四点が有ると言われている。当社のものには拡大のための升目が残っていて、明治神宮絵画館のは、これを拡大して作成されたと言われている。明治天皇は、明治十六年七月五日及び十九日、病に伏した岩倉を丸の内の私邸内の離れに見舞ったと伝えられているが、具視を支えている長女の増子、後ろで伏している妻の槙子の様子と、将にこの六英堂が写実されているのである。

尚、阪神大震災ではかなりの損傷を受け、新しくなった柱が多数ある。